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“過去が咲いている今 未来の蕾で一杯な今” 〜「手考足思」〜

『蝶が飛ぶ 葉っぱが飛ぶ』を読んで、

「手考足思」、考えてみました。








まず、最初にお断りですが、このブログでは、
「手考足思」について、原文を掲載することは、
引用であっても行いません。
著作権法の趣旨もありますし、
興味のある方は、ネットで検索するか、
図書館でレンタルでもしてください。



最初のパラグラフでは、
“私”が、
木や石など、いろんなモノの中にいる、
と書かれています。
そして、その“私”が、そこから出してくれとせがむ、
と書かれています。

さらに、私は、その“私”を、
そこから出してやろうとします。
その方法や手段は問わない、
とも書かれています。

“私”は、私が好きなものの中に、
必ずいるのだと。
その“私”をそこから出すのは、
未だ見ぬ“私”を、見たいがために。

関係する文章は、次のとおりでした。

自分の好きなものを自分で作ってみようというのが、私の仕事です。

何度努力して表現してみても、本当にぎりぎりの自分は、
なおもかなたに残っています。
だから毎日が、今度はどんな自分が出るかという期待です。
これが生命の原動力だと思います。

ないものを得ようとするのではない。あるものをとり出す。

こうして見ると、河井寛次郎の昨陶の動機が、
書かれているような気がします。

まだ自分でも気がついていない自分を、
発見したいという欲求を満たすために、
自分が潜んでいる木や石などを通じて、
作陶を行う。
この作陶行為は、生きる源になっているのだと。



次のパラグラフでは、
私は、“私”を、いろいろな形でしゃべる、
と書かれています。
土や火でしゃべったりすると。

そして、この私のおしゃべりが通じた相手に対し、
私がしゃべったものは、通じた相手のものだと。
その時には、私の中にあなたがいて、
あなたの中に私がいると。

関係する文章は、次のとおりでした。

別の生涯をもし与えられたとしても、やはり陶器を作ります。
今私のいる状態はたいへんありがたいのです。作りたいものを作れるから。

この“おしゃべり”が、作陶を表しているのかもしれません。
河井寛次郎は、数ある表現方法の中から、
作陶を選択したのでしょう。

そして、この陶器を通じて共感できた相手とは、
強い絆を感じたことでしょう。



次のパラグラフでは、
再び、“私”が、いろんなモノの中にいることが、
書かれています。

次の2つのパラグラフでは、
私がしたいことをしてくれたあなたは、
私でもあると。
あなたと私は、
いったい誰なんでしょう、
と書かれています。

関係する文章は、次のとおりでした。

そういう際に表現されるぎりぎりの自分が、同時に、他人のものだというのが自分の信念です。
自他のない世界が、ほんとうの仕事の世界です。

座右の銘としては、「自分は何か」。常に自分自身ととっくんでいます。
自己を通じて、しかも自他のない世界に至りたいと願います。

最近、自他の区別がつかなくなってきましてネ、
仕事を他人に手伝ってもらっても、それが私の作ったものとしか思えないんだ。
反対に他人が私の作品を、自分が作ったんだと主張しても、素直に受取れるネ。
ものみなすべて、私と一体というわけです。

先ほどの共感が、今度は、
自他そのものの概念を打ち消そうとして
発展していこうとしているような気がします。
さらなる次のステージに、ステップアップするかのような感覚でしょうか。

自己を知るための作陶の所産である陶器によって、
その陶器に共感する他人と強い絆で結ばれていく感覚が、
今度は自他の概念を超えるものに変わっていく。
このような感覚も、作陶の所産といえるのでしょう。



次の2つのパラグラフでは、
「あれ」と「これ」という言葉を使いながら、
私とあなたのモノについて、
その概念を伝えようとしています。

最後のパラグラフだけは、原文掲載を。

過去が咲いている今
未来の蕾で一杯な今

関係する文章は、次のとおりでした。

何という今だ
今こそ永遠
全自分を賭けている時
この時より他に生きている時があるであろうか。

河井寛次郎が永眠する1ヶ月前に発表された詩「饗応不尽」の最後にも、
同様のフレーズがあります。

このままが往生でなかったなら 寂光浄土なんか何処にあるだろう

河井寛次郎は、「今を生きる」ということに、
強いこだわりを持たれていたと思います。

その時その時、全力を尽くすことの尊さ、素晴らしさ。
今は、過去の積み重ねである。
だからと言って、過去が良くなかったとしても、嘆く必要はない。
これからの未来は、
今にかかっているのであり、
過去にかかっているわけではないのだから。

“過去が咲いている今 未来の蕾で一杯な今”

なんて言われたら、
大抵の人は、
今を大切に生きよう、と思うことでしょう。
そして、今この時に努力をしよう、と思うことでしょう。

このフレーズは、どんな立派な説教よりも、
より多くの人に対し、より強い説得力をもって、
心に響いてきたことでしょう。

このフレーズに巡り逢えた幸運に感謝したい。
素直に、心から、そう思いました。



じつは、数年前から私が大切にしている言葉があります。
それは、

It is sure to be connected to carry out my best as follows now.

“今、自分のベストを尽くすことが、必ず次につながる”

この言葉には、一見、“未来の蕾で一杯な今”しか
含まれていないような気がしますが、
今の自分があるのは、過去に努力を重ねてきた結果、
という意味もあります。ですから、
“過去が咲いている今”も関係しているのです。
この言葉を題材にした記事には、
そのようなことも書いています。

なので、河井寛次郎のこのフレーズは、
とても魅かれました。
座右の銘に、なりそうな予感…。




以上が、『蝶が飛ぶ 葉っぱが飛ぶ』を読んで
感じたことです。
河井寛次郎の世界に、
コンパクトではありますが、
この「手考足思」の詩を中心にして、
少し触れることができたような気がしました。

「手考足思」とは、
“手で考え足で思う”と読むと思いますが、
これは、故・筑紫哲也氏の言葉をお借りすると、

私がたまに色紙を書かされるときに、
たいていばかの一つ覚えで「多事争論」と書いておりますが、
もう一つ時々書く言葉がありまして、それは「手考足思」という言葉です。
手で考えて足で思うと。
つまり、頭の中で理屈ばかり言っている中では物は動いていかないわけで、
これは私の生涯のアイドルと言うと変ですが、
河井寛次郎という陶工がいまして、この人がよく、焼き物の心得として、
頭でっかちではだめなんだということで、
手と足というものを使って考えたり思ったりすることが
いい焼き物をつくるんだという意味で言ったんだろうと思います。

ということになるのだろうと思います。
この『蝶が飛ぶ 葉っぱが飛ぶ』の中から、
関係しそうな文章を、拾ってみました。

今日の人は、物にかえることを練習しなくてはいけないと思います。
ただ考えてばかりいるのでは思想は不徹底になります。

常に固定した概念を打ち破って進んで行くことこそ、
柳(宗悦)の若い人達に托した悲願だったと私は思う。
しかしここで一番用心しなければならないのは、個人道の欠点だ。
それはややもすると、暮らしからはずれ、
過度の誇張や歪曲や意識の過剰や造作に陥りがちになることだ。
昔から如何に多くの者がこの穴に落ち込んでいることか。
本当の個人道は、そんなものを乗り越えなければ浮かばれない。

この世は自分でつくっているところ どんなにでもつくれるところ

物事を考えるときには、当然に
“頭”を使うということになるわけですが、
だからといって、“頭”ばかり使って考えていては、
良くない発想になるのだと思います。

河井寛次郎は、基本は陶芸家ですから、
作陶ということが“手仕事”になるわけですが、
その作陶にあたっては、
物が形作られる因縁として、

信心のため
暮し向のため
美しさのため

3つ挙げています。
このように、頭だけを使って考えていたのでは意識しないであろう
この3点を、作陶により意識することになっています。
信心とか暮らしとか、人間の基本的なことを軽んじた結果のアウトプットに、
何ら意味はない、
ということなのでしょう。

とりあえず私は、そう理解しています。


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